豊かな自然環境と歴史性
■高台の先端に位置
板橋区は、荒川と多摩川にはさまれた武蔵野台地の北東端付近に位置している。
特徴的なことは、荒川に接しているため、武蔵野台地と荒川低地に大きく分かれる点である。区の4分の3は台地上にあり、残りは北部の高島平一帯の荒川低地で、その標高差は約20メートルにのぼる。荒川低地は蓮沼、根葉(蓮根)の地名が示すように湿地帯を形成していた。また台地の崖線の所々からは清水が湧き出していた。
さらに荒川低地は縄文時代には海であったことが、貝塚や遺跡が台地の縁に見られることからも分かる。「ヴィオスガーデン城山」はまさにこの台地の北端部分に位置し、西側も低地に面している。そのため東側は台地に続くが南西北の三方は眺望が開けている。近くには中台馬場崎貝塚、小豆沢貝塚のほか志村坂上、中台三丁目東丘陵、中台畠中の遺跡がある。
■敷地は「志村城」の本丸跡
「志村城山公園」「城山幼稚園」「志村城山通り」など「城山」という名が残るこの地には、かつて「志村城」なる城が存在した。熊野神社の境内に「志村城址跡」の碑がある。
室町時代の康正2年(1456年)、千葉隠岐守信胤(ちば・おきのかみのぶたね)によって築かれたとされる。その後約70年にわたり難攻不落の城としてそびえていた。
「ヴィオスガーデン城山」はちょうどその本丸に、隣接の熊野神社は二の丸にあたる。社殿西側には空堀の跡が今も残っている。
志村城主の千葉氏は、守護大名千葉氏の末裔で武蔵千葉氏と呼ばれる。千葉氏は下総国(今の千葉県)千葉荘に住み、地名を苗字として強大な勢力を誇っていた。その後内部の抗争で分裂し、1453年敗れた宗家の一派は扇谷上杉氏を頼って武蔵国に逃れ、石浜城(荒川区)と赤塚城(板橋区)を与えられた。
この宗家一族は代々石浜・赤塚に住み、下総に帰ることはなく武蔵千葉氏と呼ばれた。赤塚城址の近くにある曹洞宗の松月院は千葉氏の開基となる。
■ 平安時代からの熊野神社
「ヴィオスガーデン城山」に隣接する熊野神社は志村城より歴史は古い。平安時代の長久3年(1042年)に志村将監が紀州熊野から勧請したと伝えられる。
殺伐とした戦乱が続いた当時、人々は心の安らぎを信仰に求めた。そのひとつが熊野信仰で、紀伊国(和歌山県)にある本宮・新宮・那智の三社を崇拝の対象にするものである。
以来、近郷住民の総鎮守として厚い崇敬を受けてきた。のちに千葉信胤が志村熊野神社を志村城の守護神として尊崇し、境内を二の丸と定めた。
板橋区内の熊野神社では最も古く、社殿は古墳の上に建立されている。また境内の樹木は板橋区の保存樹第一号に指定されている。